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キプロスの歴史はじめに 世界的にも悠久の歴史のあるキプロス。三大陸の交差点に位置していることは戦略上見逃せず、また銅と木材を充分に供給できるキプロス島を領土とすることはとても価値があるため、小さな島ながら古くからとても重要視されてきました。 キプロス文明は紀元前約9000年まで遡ります。胴が発見されると貿易が始まり、島には富がもたらされました。紀元前約1200年、ミケーネのアカイア人が島に住み着き、今日に至る基礎となるギリシャの言語や文化を広めました。キプロスは、結果として幾多の諸外国の勢力に翻弄されてきましたが、けれども、言語・文化ともにギリシャ人としての個性を持ち続けてきました。島の中でトルコ系キプロス人と呼ばれているイスラムの人々はトルコ語を話しますが、これは16世紀から19世紀にかけての約300年間オスマントルコに占領されていた時代、キリスト教信者に課せられた重税や威圧から逃れるために、強制的にイスラムに改宗させられた人々がいた結果です。 キリスト教は紀元1世紀、聖パウロとキプロスに教会を始めて建てた聖バルナバスによって伝えられました。 歴史概略 新石器時代(紀元前8200-3900年) 新石器時代からキプロスには集落がありました。その様子はニコシアとリマソール間を走る高速道路から入ってすぐのところにあるヒロキティア遺跡に再現されています。初期は石器だけでしたが、紀元前5000年以降の第2期には壷も使われるようになりました。 銅器時代(紀元前3900-2500年) 新石器時代から青銅器時代への移行期。銅器時代の集落跡は、豊穣多産を讃える地母神信仰が盛んだったキプロス西部からその多くが発見されています。銅の利用が次第に広まった時代です。 青銅器時代(紀元前2500-1050年) 銅資源はキプロスに莫大な富をもたらしました。アラシアと呼ばれていた当時のキプロスは、近東、エジプト、エーゲ海地域と盛んに交易を行っていました。 紀元前1400年以降、初めて島にやってきたギリシャ人は商人でした。紀元前1200年ごろからアカイアーギリシャ人が定住を始めると、ギリシャ語やギリシャの宗教・習慣が島に定着していきます。アカイア人はキプロス全土を支配し、パフォス、サラミス、キティオン、そしてクーリオンという王国を築きました。これ以降、島のギリシャ化が進みました。 幾何学時代(紀元前1050-750年) キプロスは10の王国のあるギリシャ人の島となりました。女神アフロディーテの生誕地としてアフロディーテ信仰が花開きました。 フェニキア人が、紀元前9世紀にキティオンを植民地化し、紀元前8世紀にかけて大いに繁栄しました。 古代古典時代(紀元前750-310年) 繁栄は続きますが、次第に外からの勢力に征服されていきます。キプロス王国はアッシリア、エジプト、そしてペルシャの属国となりました。サラミスのエヴァゴラス王(在位紀元前411-374年)がキプロスを統一し、キプロスはギリシャ世界における政治文化の中心的な存在となりました。 キプロスの諸王国はキプロスがマケドニアのアレキサンダー大王の帝国の一部となることを歓迎しました。 ヘレニック時代(紀元前310-30) アレキサンダー帝国の将軍たちの争いにより、キプロスはエジプト・プトレマイオスのヘレニック国家の配下となり、それ以降一層ギリシャ化が進みます。プトレマイオス王は諸王国を廃止してキプロスを統一し、首都をパフォスとしました。 ローマ時代(紀元前30年―紀元330年) キプロスはローマ帝国の領土となります。聖パウロと聖バルナバスが布教の旅にあるとき、地方総督セルギゥス・パウラスはキリスト教に改宗し、キプロスを初めてのキリスト教国としました。紀元前1世紀に破壊的な大地震が起こりましたが、紀元1世紀、町は再建されました。313年ミラノ勅令によりキリスト教の自由が認められ、325年、キプロス人の主教がニコシアでの宗教会議に参加しました。 ビザンチン時代(330-1191年) ローマ帝国の分裂後、キプロスは、コンスタンティノープルを首都とするビザンチンいわゆる東ローマ帝国の支配下となります。キリスト教が正式な宗教となりました。4世紀に再び起きた地震により主要な都市はほぼ完全に破壊されました。新しい町としてコンスタンティーナが首都となり大きなバシリカが建てられたのは4世紀から5世紀にかけてです。 488年皇帝ゼノはキプロスの教会に完全な自治権を与え、大主教が牧杖の代わりに笏を持つこと、紫の袈裟を着用すること、赤インクでサインすることを認めました。647年島はアラブに侵略されます。その後965年皇帝ニセフォロス・フォカスが小アジアとキプロスからアラブを撃退するまでの約3世紀にわたりキプロスは常にアラブや海賊の攻撃にさらされました。 リチャード獅子心王と十字軍騎士団(1191-1192年) 第3次十字軍の遠征途中、船が難破しキプロスに流れ着いたリチャード王の艦隊の生存者、この難破船にはリチャードの妹やシシリーの女王、また婚約者であるナヴァレのべレンガリア王女も乗っていたのですが、彼らに対するイサック・コメヌス、ビザンチン司令長官であり自らをキプロス《皇帝》と宣言した人物、の振る舞いはとても無作法なものでした。リチャード王はイサックを復讐して挫折させ、ナヴァレのべレンガリアとの結婚式をリマソールで行い、ここでイギリス女王の戴冠を行ないました。 1年後、リチャード王は島をテンプル騎士団に10万ディナーで売却し、その後、フランク王国軍の命令により、島は同額でエルサレム王ギイ・デュ・ルシグナンに売り払われました。 フランク王国(ルシグナン)時代(1192-1489年) 封建制度が敷かれ、ギリシャ正教に対しては生き残るのが困難なほどの過酷な抑圧が加えられ、代わってカソリック教会が正式な宗教となりました。その頃よりファマグスタ(アモフォストス)は近東でもっとも豊かな町となります。この時代に、歴史的な名称であったレフコシア、アモフォストス、及びレメソスの町の呼称がそれぞれニコシア、ファマグスタ、リマソールに変えられました。フランク王国の支配は非人道的な圧政でした。ルシグナン朝の時代は1489年最後の女王カテリーナ・コルネールがキプロスをヴェネチアに譲渡したことで終わりました。 ヴェネチア時代(1489-1571年) ヴェネチアは、ニコシアにあった美しい建物を取り払い、新たに建てた強固な壁の中に町を押しやり、オスマンに対する東地中海最後の砦としてキプロス島の守りを固めました。ファマグスタ周辺にも当時の最高技術を駆使した城壁を建築しました。 オスマントルコ占領時代(1571-1878年) 1570年、オスマントルコの軍隊がキプロスを攻撃して2万人もの人々を虐殺し、ニコシアを攻略、またファマグスタを約1年にわたり包囲しました。ヴェネチアの司令官マルク・アントニオ・ブラガディンによる勇猛果敢な攻防戦にも拘らず、ファマグスタはオスマントルコの司令官ララ・ムスタファの手に落ちました。ムスタファは包囲軍の解除は平和的に行ないましたが、その後、ブラガディンの略奪と全員の死を命じました。オスマントルコ帝国との併合に伴い、ララ・ムスタファが初代の司令長官となりました。それから1878年までキプロスはオスマントルコの支配下となります。オスマントルコ時代に形成された少数派のイスラム人たちは、結局キプロス人としての自覚・独自性を身につけていきました。まず始めに、ギリシャ正教会に完全な自治権を与え、封建制度を廃止し、自由民となった奴隷には、重税が伴いますが、土地を取得することを認めました。オスマントルコの勢力が衰え、その体制が腐敗し暴力的な支配が行われるようになると、キリスト教の人々とイスラム・キプロス人とが団結し、オスマントルコの支配に対し戦うことが多くなりました。しかしこれは楽天的な見方でした、――悲しいことに誤った見解だったのです―キプロスはギリシャになろうとして、イギリスの支配を受け入れてしまったのです。 イギリス植民地時代(1878-1960年) 1878年のキプロス協定により、イギリスは弱体化したオスマン帝国をロシアの脅威から守ることを保障するという条件で、その統治権がオスマントルコからイギリスに渡されました。この状況はドイツ側として戦った第1次世界大戦初期まで続き、1914年キプロスはイギリスに併合されました。1923年ローザンヌ条約によりトルコはキプロスに関する全ての権利を放棄しました。1925年キプロスは大英帝国の領土として宣言されます。1940年第2次世界大戦にキプロスの人々は自主的に英国軍兵士として参戦しました。 イギリスの戦略によって島は致命的に破壊され、戦後、特にスエズ宣言の後になると自らの決断が望まれました。もしキプロスがギリシャの一部となれば、イギリスはその基地と影響力を失ってしまい、分割政策を適用すれば、トルコの野望を再燃させることになります。アンカラはギリシャの島が自身の弱点となることに賛成できませんでした。そこで、イギリスは人口の18%を占めるトルコ系キプロス人に武器を供給し、ギリシャ系キプロス人を攻撃させました。このことは島分割の思想をトルコ内に助長させたのです。 キプロス問題の根源は、外国から干渉されそして占領されてきたことにあります。幾世紀にもわたりキプロスはその時代の勢力に支配されてきましたが、それでもギリシャ人としての本質とギリシャ正教の伝統は失いませんでした。ギリシャと併合しようというエノシスの野望は、19世紀にギリシャがオスマントルコから独立を勝ち取ったときから強いものでしたが、イギリスがキプロスを支配するようになると、この夢はさらに強まり現実的な目標となりました。その問題解決と平和の実現のために、1955年植民地支配に対抗しギリシャへの併合に向けて民族独立運動が始まったのです。 1959年のイギリス、ギリシャ、トルコ三ヶ国首相、さらにギリシャ系及びトルコ系キプロスそれぞれの代表によるチューリッヒ及びロンドン会談で、独立への合意が達成され、独立運動は終わりました。 キプロスはチューリッヒ・ロンドン協定に従い、1960年8月16日共和国として独立し、国連、EC, 英連合王国、非同盟諸国の一員となった。その独立は、島内の二地区、デケリア及びアクロティリ-エピスコピに英国が軍事基地を保有することを認めるものであった。 キプロス共和国 チューリッヒ・ロンドン協定は軍事基地に対する諸権利を保証している。連合王国及びギリシャ・トルコはキプロス共和国の独立・領土保全・及び安全保障、そして憲法を承認し保証する。キプロス、ギリシャ、トルコ軍の活動はその防衛のためとする。これらの協定は1960年策定の憲法の基礎となった。 1960年の協定では他国と比較すると少数民族権利が尊重された。18%を占めるトルコ語を話すイスラム教のキプロス住民はその文化と宗教が尊重され、また議席が決められた(副大統領はトルコ系とし、大臣は10人のうち3人を、議員は全議席数50のうち15をトルコ系とした)。トルコ系キプロス人の議員たちはその拒否権を行使したため、税制をも改正しなければならない状況に追いつめられた。1963年11月キプロス大統領は政府機能を回復させるため憲法改正提案を提出したが、トルコ系キプロス住民は即座に拒否し、憲法は独立時の協定を無効とした改定をなされてはならないと主張した。 トルコ系キプロス人の大臣は大臣会議からはずされ、トルコ系キプロス人の役人や従業員はその職をはずされた。憲法の行き詰まりは相互の衝突を招き、トルコによる侵略をもたらすきっかけとなった。それ以降、徐々に島を元に戻そうとしていたにもかかわらず、トルコ系キプロス人リーダーの狙いは、トルコ政府に働きかけ、キプロスを分割しトルコの領土とすることだった。 1974年7月15日ギリシャ軍事独裁政権はキプロス政権打倒のため砲撃をした。 7月20日トルコ軍はトルコ系住民保護を名目にキプロスに侵攻した。その北部地域、キプロス島の約35%を掌握するが、国連憲章及び国際法に対する明らかな違反であると国際的な非難を浴びた。たったの75kmしか離れていないトルコにとって、キプロスは軍事上とても重要であるため、侵略以前また以降も数十年にわたり繰り返し領有することを主張してきた。アンカラは、占領地域の軍隊を島から撤退させよという国連決議を拒否している。 1974年11月1日国連総会決議3212が採択された。第一条では、全ての国に対し、キプロス共和国の主権、独立、領土保全及び非同盟を尊重し、それに敵対するすべての行動や干渉を差し控えるよう要請されている。 さらに総会決議、国連安全保障理事会、国連人道支援協議会、非同盟諸国、英連邦、ヨーロッパ会議、EC, その他の国際機構は、すべての難民が速やかに安全に人道的にその故郷に帰還すべきと考え、その目的のために諸措置をとるよう要請されている。 侵略と占領は悲惨な結果をもたらした。全人口の80%はギリシャ系キプロス人だが、そのうち北部地域に暮らしていた約14万2千人(この数はキプロス全人口の約4分の1に相当する)のギリシャ系キプロス人は、強制的に北部地域から追い払われた人々である。これらの人々には剥奪された家や財産を取り戻す権利がある。さらに、占領地域に残留した約2万人のギリシャ系キプロス人は次第に激しくなる脅しや脅迫のため、基本的な人権を奪われ家を捨てざるを得なかった。現在でも600人弱の人々が北部に暮らしている。 侵略はキプロス経済にも打撃を与えた。観光客の収容人数の65%、建設工事中のホテル87%、ファマグスタ港から出港していた貨物83%、学校設備の40%、鉱山資源の56%、家畜の41%、農産物輸出高の48%、工業製品の46%、森林資源の20%、これらのものを侵略によって&% |